上川中部圏ポータルサイトは,平成30年(2018年)1月31日で閉鎖します。
ご利用ありがとうございました。

上川中部圏ギャラリー

東神楽町

彫刻群

5-01_s.jpg(5227 byte)

5-01 茜雲

国松明日香氏の作品で義経公園に展示されている。


5-02_s.jpg(3945 byte)

5-02 風の中

板津邦夫氏の作品で義経公園に展示されている。


メモリアルホール

5-03_s.jpg(3817 byte)

5-03 建物正面

建物正面


5-04_s.jpg(3426 byte)

5-04 幼児コーナー

幼い子供たちにも親しんでもらえるよう幼児コーナーを設けています。


5-05_s.jpg(7183 byte)

5-05 彫刻「わかば」

入口付近にある彫刻「わかばです」
彫刻家「佐藤忠良(1912〜)」
宮城県に生まれる。7歳の時に北海道に移住し、札幌二中を卒業。その後東京美術学校彫刻科に進学。本郷新、山内壮夫 らと新制作協会の創立に参加した。戦後イタリアの具象彫刻に示唆を受けながら女性像にジャンパーやマントなどを取り合わせた独自の新鮮な写実表現を展開している。


5-06_s.jpg(4230 byte)

5-06 記念ホール

記念ホール


5-07_s.jpg(3840 byte)

5-07 ギャラリー

ギャラリー


5-08_s.jpg(3688 byte)

5-08 図書館

図書館の受付


5-09_s.jpg(3240 byte)

5-09 図書

蔵書が約3万冊あります


開拓風景ミニチュア展「ミニ資料館」

5-10_s.jpg(3548 byte)

5-10 建物正面

建物正面


5-11_s.jpg(4697 byte)

5-11 展示品(1)

田んぼの草取り風景


5-12_s.jpg(3608 byte)

5-12 展示品(2)

冬、馬が伐採した樹木を運んでいる様子


5-13_s.jpg(5312 byte)

5-13 展示品(3)

いろいろな展示物


交流プラザつつじ館

5-14_s.jpg(3398 byte)

5-14 建物正面

建物正面
東神楽町は"すてきな笑顔と花のまち"として大きく育ってきました。いま新たな歩みの一歩として交流プラザつつじ館ができました。


5-15_s.jpg(3577 byte)

5-15 展示室入口

この町の歴史と文化、豊かな自然をわかりやすく解説し訪れる人々が「ふるさと」について楽しく語り合える場所となることを願っています。


5-16_s.jpg(3730 byte)

5-16 シンボル

展示室全体の展示効果を高める役割を示しています。
村の有志らによって、明治39年(1906)に競馬会が組織され、競馬が開催されました。この行事は村内だけではなく、広く上川管内に知られるようになりました。道内各区から多くの馬が集まり、競馬は盛大に行われました。この鐘は競馬会が組織された年につくられました。以来、東御料地で開催される毎年の競馬に使用され、その澄んだ音色が東神楽の平野に響きわたり、村人の血を大いにわかせました。


5-17_s.jpg(3627 byte)

5-17 歴史

町の発展の様子をパネルで紹介しています。

東神楽のあゆみ−1
明治時代<入植と開拓>
上川原野の開拓が進むにつれて人口も増え、明治25年(1892)には神楽村が誕生しました。その2年後に東御料地の貸し下げが行われ、本格的な開拓が始まります。うっそうとした原始林は、大木や身たけ以上のクマ笹が密生し、歩くだけでも大変な土地でしたが、徐々に耕地となり、アワやアズキなどが植えられるようになりました。開拓はきびしい大自然との闘いの連続でした。

東神楽のあゆみ−2
大正になって、開拓が進み東神楽へ移り住む人の数が増え続けました。水田耕作がすっかり定着し、青々とした水田が広がるようになりました。忠別川に待望の大正橋が架けられて、日用品はもちろん農産物の運搬がぐっと便利になりました。大凶作やたび重なる冷害に苦しみながらも、農業技術や農具の発達などで農業基盤を着実に築いていった時代でした。


東神楽のあゆみ−3
昭和時代<町制施行と発展>
昭和になって東神楽村の新しい村づくりが始まりました。昭和初期の大恐慌と連続凶作に苦しみながらも、村人は勇気と希望をもって困難を乗り切ってきました。昭和18年(1943)に東神楽村が誕生。同41年には村民待望の町制が施行され、ここに晴れて「東神楽町」となりました。この年、道北の空の玄関として旭川空港が開港。また、「花いっぱい運動」が始まり、東神楽町は「花のまち」として知られるようになりました。

農業のあゆみ
この地での初めての農業は、開拓者たちが原始林を切り倒し、そこにアワ・アズキ・ハダカムギ・トウモロコシなどの穀物を植えることでした。開拓当初は畑作だけが行われておりましたが、米は育たないといわれていた上川地方で、稲作を試みるものが現れ、成功させました。明治の末には稲作のための大規模は灌漑施設も完成し、神楽村の稲作はいよいよ軌道にのり、おいしいお米を本格的にたくさん作るようになりました。

商工業のあゆみ
開拓当初は、日用品を手に入れるために、わざわざ滝川の商店街にまで出かけました。旭川に商店街ができ始めると日用品はここで調達するようになります。こうしたなか、明治30年(1897)には、東神楽にも初めての商店として荒物屋が開業しました。その後、衣服屋・飲食店・床屋・桶屋・宿屋などが次々と開店し、現在の東神楽市街地の原型ができました。一方、工業の発達は遅く、昭和7年に澱粉工場ができるまで、工場らしいものはありませんでした。

学校のあゆみ
苦しい開拓生活にあっても、親は子どもたちに人並みの教育を受けさせたいと、学校の必要性を強く感じていました。当時は旭川の小学校まで通わなければならず、通学はほとんど不可能でした。明治29年(1896)に私立簡易教育所を創設、同32年には新校舎が落成し、公立神楽東第一尋常小学校となりました。当時の教育科目は、終身・国語・算術・唱歌・体操など。子どもたちは農作業を手伝いながら元気に通学しました。

消防のあゆみ
大正7年(1918)、東御陵地の山林で大火災が起きました。入植以来3回目の火災でありました。この山林火災がきっかけになって大正9年に、神楽町・東御陵地・西御陵地の3分団による公設神楽村消防組が発足しました。演習で技量を高めたり、ポンプ車等を購入して設備を充実させたりしました。

東神楽ことはじめ
●製糖工場
精糖工場が作られたのは昭和18年(1943)のこと。原料である砂糖きびの栽培は年平均気温が20度以上必要で、17〜18度の等高線が栽培の限界といわれています。四国から技術員を4名雇って製造していました。
●呉服・小間物屋
開拓の頃には呉服店はなく、旭川から背負商人が入っていました。明治38年(1905)に始めた呉服店では、小間物や化粧品から履物まで扱っていました。
●精米所の移り変わり
精米所は、明治35年(1902)東御料地に本格的な開田をしたところがありました。初めは、上下に動く「バッタ」の杵を装置した臼が使われ、唐臼と呼ばれました。大正13年(1924)になると、石油発動機による横筒回転式の精米機が導入されました。
●糀屋
糀は米・麦・大豆などにコウジカビなどのカビをはやしたもの。酒類・味噌・醤油などの醸造や漬け物などの製造に欠かせないものでした。明治40年(1907)に糀屋が初めて登場します。
●靴・履物店
開拓当時は、草鞋に布の足袋をはくか、自家製の下駄を履いていました。明治40年代になると下駄職人の手による注文品をはくようになりました。履物類は大正・昭和初期までは荒物雑貨店で販売されていました。昭和10年ごろからは、革靴をはく人も見かけるようになりました。
●豆腐店
明治35年(1902)ごろには自家製の豆腐が作られていました。豆腐店では自家製の油揚げ・ガンモドキ・コンニャクも売られていました。


5-18_s.jpg(3797 byte)

5-18 沢田の沢遺跡1

沢田の沢遺跡は、東神楽の市街から南方へ約2kmほどのところ、現旭川空港周辺北西側に位置します。ここから石器や土器が出土し、昭和55年(1980)から翌年にかけて本格的に発掘調査された。その結果、縄文早期から晩年まで(8000年前〜2000年前)の石器と土器が6万点以上も出土しています。


5-19_s.jpg(3237 byte)

5-19 沢田の沢遺跡2

この遺跡は、縄文時代初期から何回かにわたって生活の場とみが多く残されており、その中から生活に使われた土器や石器が見つかっています。土器は縄文時代の各期
にわたって発掘されていますが、最も多いのは末期ごろのものです。食器や調理などに使われた土器のほかに、狩猟や生活用具として使われた矢じり・石やり・ナイフ・スクレーパー・ドリル・石おの・すり石・石皿・砥石など、いろいろ石器があります。また、縄文時代末期ごろのお墓が見つかり、副葬された矢じり・ナイフ・石おの・玉などが数多く発見されています。
シュブノッナイ式土器
この土器は、縄文時代中期ごろのもので、口の部分が欠けていています。もとの大きさは口径約29cm、高さ39cmで土器の厚さは約15mmです。器壁は垂直に近い円筒型で、底は平底になっています。表面には、何本かの棒を櫛のようにした工具で、全面に文様をつけています。このことから、この文様は櫛目文ともいわれています。
深鉢形土器
この土器は、縄文時代末期ごろのもので、ほぼ完全な形に復元されています。口径約29cm、高さ約30cm、底約12cmの深鉢形で、底がわずかに丸くなっています。土器の表面には、縄を転がした縄文が全面につけられています。土器の厚さは10mm前後で、前のものより薄くする技術も備わって精巧にできています。発掘された遺構(人が暮らした所)の中にいくつかの墓が認められますが、遺体は長い年月の間に腐食して見られません。お墓には、矢じり・ナイフ・石おの・土器片・こはくの玉などの副葬品も数多く見られ、その中には真っ赤な紅がらで装飾されたものもあります。


5-20_s.jpg(4739 byte)

5-20 農耕具

開拓当時からの農機具を紹介。


5-21_s.jpg(6242 byte)

5-21 縄文式土器

沢田の沢遺跡から出土した縄文式土器です。


5-22_s.jpg(3780 byte)

5-22 土器(小)

沢田の沢遺跡から出土した土器です。


5-23_s.jpg(2506 byte)

5-23 ギャラリー

町民の皆さんの絵画や陶芸品・書道作品等を展示しています。


上川中部圏自治体情報化連絡会 (事務局・旭川市情報政策課)